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2008.03/29(Sat)

父の一周忌に寄せて

ちょうど先週、父の一周忌が行われた。
「もう、あれから一年なのか……」と思う。
あっという間に時間は流れ、
少しずつ少しずつ、
父のことは思い出になっていった。

父の葬式が終わって、東京へ戻ったとき、
まだ私の中では心の整理がつかなかった。
それで、父が亡くなった直後から葬式まで
なるべく冷静に
書き留めておきたいと思った。

一周忌に寄せて
一年前に書いた私の気持ちを
今ここに記すことで、
私なりの「一つの区切り」にしたいと思う。

【More・・・】

父が肺癌の末期であることを知ったのは、
昨年の11月末だった。
それを知った父の意志は固く、
一切の「延命治療」を断り
自宅で訪問看護による緩和ケアだけ
してもらうことになった。

食欲がなくなり、
どんどんやせ細っていた父だったが、
私たちが最後に見舞った3月初めは、
体調も少し良くなり、
三食ペロリと平らげたりしたので、
みんなびっくりしていた。
「これなら、春休みにもう1度、父に逢えるだろう」
私は、少しだけ希望を持って、
実家の広島を後にしたのだ。

あれが、生きている父との最後の別れだった。

3月23日、朝、母から電話がかかってきた。

「お父さん、昨日の夜中から呼吸困難で意識もない。
たぶんあと数時間だと思う。
今日来てもらっても間に合わないと思うから、
明日来て。」

とうとう「来るべきときが来た」と思った。
今まで何回も、
電話でこのセリフが母から言われる日を
シュミレーションしてきて
その都度涙を流してきたのだが、
不思議なことにその時は涙が出なかった。

実家へ行く準備をし、
新幹線の切符を手配しようとしたが、
いつも利用する禁煙車席は、
春休みという事もあって、もう席がなかった。
子連れで喫煙席はかわいそうなので、
グリーン車の席にした。
これが楽しい旅行だったら、
初めてのグリーン車にワクワクしたことだろう。

「あと数時間」はもうとっくに過ぎてしまったというのに、
母からは一向に連絡がなかった。
佐賀に住む妹から電話がきて、

「もしかして、少し持ち直したのかもね」

なんて話をした。
最後に父と逢ったとき、比較的元気だったので、
こんなに急変してしまうとは
私も妹もにわかに信じられなかったのだ。

夜9時前だった。
母から電話が来た。

「お父さん、今、息を引き取った。」

「そう……」

母は、他の人達にも電話で連絡しなければならず、
必要なことだけ言ったあと、
慌しく電話は切られた。

私は、妹と主人に父が亡くなったのを伝え、
まるで何事もなかったかのように
子供と一緒にお風呂へ入った。
その時も、不思議と涙は出なかった。
主人や子供の前では、やはり泣けなかったのだ。

翌朝、子供と新幹線で広島へ向かった。
東京は、どんよりとした曇り空だった。

初めて乗った新幹線のグリーン車は、
椅子のクッションが比較的良いことと、
おしぼりのサービスが2回あったくらいで
取り立てて感動するほどのものではなかった。
そんなことより、
私は父の遺体と対面するのが怖かった。
「父が死んだ事実」を否応なく認めなければいけない、
“その時”が来るのが怖かったのだ。

名古屋あたりでは激しく降っていた雨も、
実家につく頃は小雨になっていた。
子供の手を引き、
この前行ったばかりの実家へまた向かった。

六畳の部屋2つの間にある襖を取って、
片方に祭壇、そしてもう片方に
父の遺体が横たわっていた。
まだ棺には入れられておらず、
布団の上に白い布を被せられて
動かなくなった父がそこにいた。
まるで、何かのドラマの1シーンのような、
そんな光景だった。

母が、泣き疲れた声で言った。

「お父さん、こんなに冷たくなっちゃって。
あんなに暖めてあげたのに。
お父さん、何か言ってよ。
寒いよね。何か言ってよ、お父さん。」

父の顔に掛けられていた
白い布をおそるおそる取った。
顔が土気色になっている事、
鼻や口に詰め物をされている事を除けば
普段寝ている父と変わらない表情だった。

父の頬に手をあててみた。
そのあまりの冷たさに、
初めて父の死を実感した。
それと同時に、
涙が止め処もなくあふれてきた。

「こんなに冷たい…」

それ以上は、何も言えなかった。
嗚咽とも号泣ともつかない、
そんな泣き方をしたように思う。
後ろでそんな母親の様子を見ていた子供が、

「お母さん、泣いちゃダメ!」

と何度も怒っていた。
6歳の子供には、
「人が死ぬ」とはどういうことか、まだ理解できないのだ。
それが哀しくて、よけい泣けた。

その後、千葉から叔父がやってきて、
葬儀屋の人と私・母・叔父の4人で
父の遺体を棺に入れた。

夕方になってから、妹家族が到着した。
妹は、棺に入った父の顔を見て、

「ごめんね、もっとたくさん来てあげたかったのに、
行けなくてごめんね」

と泣いていた。
妹の子供には障害があり、
外出するのがなかなか難しかったのだ。
それでも妹の子供は、
大好きなおじいちゃんが死んだことを
ある程度理解しており、
けっして父の顔を見ようとしなかった。

父は生前、二人の孫には
自分の死んだ姿を必ず見せるようにと言っていた。

「人が死んだら、どんな風になるのか、
子供のうちから見せる方がいい」

だから、私も妹も
自分の子供を連れてきたのだった。

翌日、お通夜だった。
お通夜といっても、
夕方始まるまで、私たちは特に何もすることがない。
せいぜい、父の祭壇にある蝋燭やお線香が
なくなっていることに気がついたとき、
火をつけてあげることくらいだ。
TVをつけたら、能登半島で大きな地震があったと
繰り返しニュースが流れていた。
いとこの一人が能登半島に住んでおり、
叔母がびっくりして携帯に電話していた。

お通夜の時間も近くなった。
実家はそれほど大きな家ではないので、
お通夜に来てくださった全員が
家の中に入ることはできない。
それで、部屋の窓ガラスをはずし、
祭壇に飾られた父の遺影が
外からちょうど見えるように
してもらっていた。

父は、この場所に生まれたときからいたわけではない。
住み始めてから、せいぜい二十数年といったところだろうか。
だから、今日のお通夜も、来てくれる人も限られた、
こじんまりしたものになるだろうと
そう思っていた。

だが、そうではなかった。

外が、びっくりするほどざわざわしていた。
予想を超える人達が、弔問に訪れてくれたのだ。
父は定年後、ボランティア活動を地道に行っていた。
また、定年まで勤めていた会社のOBでサークルを立ち上げ、
そこの会長もしていた。
そんな関係で、たくさんの人達が父の死を悼んでくれたのだ。

お坊さんの読経も終わり、最後に千葉の叔父が挨拶をした。

「私は千葉に住んでいますので、
今日来ていただいた方々は、
初めてお会いする人達ばかりです。
私は、みなさんのことを知りません。
でも、私は兄が、来てくださったみなさんに
“ありがとう、ありがとう”と言っているのが、
聞こえるような気がします…」

それ以上は、泣いてしまって言葉にならないようだった。
私も叔父の飾り気のない、気持ちのこもった挨拶に泣けた。

親戚だけで、父の祭壇の前で食事をとった後、
私や妹は子供がいるため、近くのホテルで寝るべく、
夜10時頃には実家を出た。
残った親戚達は、カラオケ好きだった父のために、
父の祭壇の前で1曲ずつ歌ったそうだ。
そして、カラオケ教室へ通っている叔母が持ってきた楽譜を見ながら
最後は全員で「千の風になって」を大合唱したそうだ。
父はきっと大喜びしたことだろう。

お葬式当日は、
前夜の雷雨がうそのような、
本当に青空のきれいな春の陽気だった。
お葬式も、前夜のお通夜同様、
たくさんの人達に来ていただいた。

最後に父の棺を開け、みんなで花を入れた。

父は、蘭や山野草の栽培が好きな人だった。
そんな父のために、たくさんの人達が花を入れてくれた。
お葬式が終わっても、
みんな名残惜しそうにその場へ残り、
私たちが火葬場へ向かうのを見送ってくれた。

私が父の遺影を持ち、隣に母、後ろに父の棺
車はゆっくりと走り出した。
途中に、父が定年まで働いていた会社が見える。
父が勤めていた会社を、父が愛したこの土地を見せてあげたくて
父の遺影を窓のほうに向けた。
楽しみにしていた桜は、まだ咲いていなかった。
お父さん、残念だったね。

火葬場に着き、とうとう父との最後の別れとなった。
私の子供はどうしても理解できないようだったが、
小学6年生になる妹の子供は、目を真っ赤にしていた。
そして、父の体は火葬炉へと吸い込まれていった。

父の体が焼かれるまで、
みんなお茶を飲んだり、父の思い出話をしながら
部屋の中で待っていた。
その日は、本当にとても良い天気だったので、
そのうちみんな部屋の外へ出て行き、
近くを散策していた。

ふいに誰かが言った。
「あっ、煙が出ている!」

雲ひとつない真っ青な空に、
一筋の煙が立ち上っていた。
今、父が焼かれているのだ。
でも、不思議と辛い気持ちにはならなかった。
ああ、終わったのだ。
この数ヶ月間の、父と私たち家族の苦しみが。
そして今から父は、私たちの心の中で
「永遠に生きる」存在になったのだ。

骨になった父が出てきた。
薬物治療をほとんどしていなかったせいか、
父の骨は大部分が残っており、
骨壷に入りきらない骨がたくさんあった。
最後に母が、大事そうに父ののど仏を骨壷に入れた。

父の癌を知った日から、色々な事を考えさせられた。
生きるという事とは
死ぬという事とは
死んでいく家族に、私たちは何をしてあげられるのか
結局答えを見つける前に、父は逝ってしまった。

お父さん、人は死んだらどこへ行ってしまうの?
語りかけても、写真の中の父は何も言わず
今日も微笑んでいる。

テーマ : ひとりごとのようなもの - ジャンル : 日記

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