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2007.10/28(Sun)

願わくば…

前回紹介した『死をめぐる50章』(朝日選書)を
やっと読み終わった。
どの章もそれぞれの死生観がよく書かれていて、
時には胸を打ち、涙ぐみ、クスリと笑い…など
様々な感想を持った。

今年の春、父を亡くした私には、
どうしてもその時の事を思い出させる章が多かったのだが、
1つだけ
「自分が死ぬ時は、こうして欲しいかも」
と思わせる章があった。
木元教子さんが書かれた「死にゆく枕辺で歌った子守歌」だ。

教子さんの夫は、「ねんねんころりよ、おころりよー」と
つぶやくような、ひとりごとのような、鼻歌のような子守歌を
死の近くなった母の枕元で歌ってあげたという。
反応はなかったけれど、気のせいか、母の目尻に
涙が滲んでいるように見えたという。

その2年後、教子さんの父が亡くなる時も、
教子さんは、妹さんと一緒に
お父さんの思い出の歌をそっと歌ってあげたそうだ。

『人間の感覚の中で、最後まで残るのは聴覚だという。
目を開くこともできず、ものも言えず、表情もなく、
なにもかも動かすことはできなくなっても、
最後まで、人はこの世にかかわる何かを、
聞き続けようとしているのかもしれない。
聞き続けることで、
自分の死を見守ってくれるものの存在と、
自分は一人ではないことを確認しているのかもしれない。』


人は、生まれる時もひとり、
死ぬときもひとりなのだけれど、
やはりひとりになるのは、怖いし、淋しい。
そんな時、できれば、
自分の愛した曲を
自分が愛した人の声を
自分が愛したものの音を
最後まで聞きながら、静かに死んでいきたい。

『西行は、春、桜が咲き、ひらひらと花びらの散りそそぐ、
あの「花の下」で死にたいと言った。
死ぬのは、やはり淋しい。
一人で死ぬのは、もっと淋しい。
西行の美意識が「花の下」と言わせたにせよ、
花の下で、花の散る音を聞き、
花に見守られているなら淋しさが遠くに行く。』


私の父は、死期が迫った頃、
それまでよく聴いていた音楽を
「うるさい」と言って聴かなくなった。
もしかしたら、死ぬ前になると
普段よりもずっと聴覚が研ぎ澄まされ、
今まで聞き取ることの無かった音も
耳に入ってくるのかもしれない。

桜が満開の頃を待たず、父は逝ったが、
もし死期の迫った父を
満開の桜の下へ連れて行ってあげることができたら、
彼は「花の散る音」を聞くことができたのだろうか。

そんなことを思った。

願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃
(西行法師)

テーマ : 日々のつれづれ - ジャンル : 日記

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