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2008.07/30(Wed)

里帰りします

いつも閲覧してくれる皆様、ありがとうございます!
書きたいことはたくさんあるのですが、
最近なかなか更新できません。
それに加えて、今日から広島の実家へ里帰りです。

戻ってきたら、もう少し頻繁に更新したいと思っているのですが、
どうなることやら……

それでは、行ってきます♪
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2008.07/21(Mon)

「わかりやすい物語」を作らない

私たちの周りには
「どうしてこんな事件が?」と疑問に思うような犯罪が
日々ニュースで流されている。
マスコミは、殺人犯の小学校時代の文集などを持ち出したり、
中学時代の友人にインタビューしたり、
こぞって「犯罪の理由探し」をしている。

7/21付読売新聞で
『秋葉原事件の理由探し』という記事があり、
そこには、重松清氏が展開する議論の要約が
書かれていた。


書き手は、事件を「最大公約数的な物語」にすること、
つまり「『わかる、わかる』と読者にうなずかせる物語にする作業」
に取り組むものである。
その点、容疑者を「雇用問題や格差社会の被害者」にしてしまえば、
今回の事件はきわめてわかりやすい物語になる。

しかし、受け手がこの最大公約数的な物語を
そのまま受け取るのはやめてほしい、という。
彼と似た「背景」や「状況」を背負っていたとしても、
そこで犯罪など犯さない多くの人たちがいる。
だから簡単に「わかって」ほしくはない。
「自分なら……」と問いかけて
自分なりに物語を組み立て直すことをしてほしい。



これは秋葉原事件に言及しての話だが
全ての犯罪において言えることではないだろうか?
たとえば最近起きた、女子中学生による父親殺傷事件。
まだどうしてこのような事が行われたのか
理由ははっきりしていない。
昔からよくあった
「親が勉強しろと言ってうるさかったから…」
という理由に今のところマスコミが持っていきたいような
そんな感じもする。
本当にそうなのだろうか?
そのような「わかりやすい物語」を作って
私たちは納得してしまってもいいのだろうか?

読売新聞の記事は、最後にこう結んでいる。


実のところ、事件の真相はなお明らかではないのだ。
「わかりたい」衝動を抑え、
「わからなさ」に耐えて
冷静な思考と議論を積み重ねていくことが、
いま求められている。



理由が分からない殺人事件は、
私たちを不安にさせる。
ただ、安易に理由を決めつけてしまうと
その条件に当てはまった人を
差別的な目で見かねない。
また、その理由だけに責任転嫁しかねない。
悲劇的な事件の再発を防ぐためにも
私たちは何度も「なぜ?」と
問いかける必要があるのではないだろうか。

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2008.07/15(Tue)

“安全”?それとも“機能”?

Yahoo!のニュースを見ていたら、
「広がるナチュラルコスメ」という記事が掲載されていた。
洞爺湖で地球規模の環境問題が話し合われたが、
お肌の環境問題=ナチュラルコスメにも
注目が集まっているらしい。

ナチュラルコスメ
=化学物質を極力使わない
植物性由来の成分を用いた化粧品


のことらしく、以前から
敏感肌や化学物質に弱い女性に
支持されていたそうだ。

「女性は一生のうちに自分の体重分ほどの口紅を
体内に入れているといったデータもある」

なんて書かれると、私も考えてしまうのだけれど……

しかしこのナチュラルコスメ、
化粧品としての“機能”はどうなんだろう?
例えばこの口紅。
食事をしても落ちにくくて、ツヤがあって、
乾燥しにくくて……などなど
女性からの要望が特に多い化粧品の1つだと思う。
化学物質を極力使わないで
これだけの機能を持たせることができるのか?
シミ・シワを目立たなくさせて
UVカットも完璧で
何色も色が揃っている。
そんなファンデーションが、
化学物質を極力使わないで、作ることができるのか?

そして私たち女性は、
安全に使えるが、機能はイマイチな化粧品と
完全に安全とは言えないが
女性が欲する機能を備えた化粧品と
果たしてどちらを選ぶだろうか?

洞爺湖サミットの環境問題と同じくらい?!
難しい問題かもしれない(笑)。

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2008.07/14(Mon)

オセロ名人

私が小学生だった頃、
ちょうど“オセロ”が流行っていた。
“四隅を押さえれば、たいてい勝つことができる”
この法則を知った私は、
大人に挑戦しては勝ち、いい気になっていた。
今思えば、相手の大人はみんな
手加減してくれていたのだろう。

母方の叔父の家へ遊びに行く機会があり、
その家にもオセロがあったので、
叔父と対戦することになった。
私は得意げに四隅をおさえ、
石を自分の色に変えていった。
そんな私を叔父はニコニコしながら
見ていた。

ところが……

なぜか、最後には叔父が勝ってしまうのだ。
それも数個ほどの差で。
勝つ法則通りやっていた私には、
なぜ叔父に勝てないのか
どうしても分からなかった。
何度か叔父に挑戦してみたが、
一度も勝つことができなかった。

叔父の仕事は「刑事」だった。
もしかしてこのオセロみたいに
捕まえた容疑者を油断させておいて、
最後にはどうしようもないところへ
追いつめたりしていたのだろうか。

オセロ名人に
「どうして法則通りでなくても
勝つことができるんですか?」
って、聞いてみようと思いつつ
時は経ち、
叔父はとうの昔に亡くなってしまった。

人生には定石通りにいかないこともある

私へ最初に教えてくれた人だった。

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2008.07/10(Thu)

「生きていた」よすが

昨夜TVをつけた時、偶然やっていた番組に見入ってしまった。
NHK教育TV 『知るを楽しむ 細谷亮太 子供の命みつめて
という番組だった。
細谷亮太氏は、小児ガン専門のドクター。
昨夜のテーマは“病と闘う子どもたち”だった。

私が見た時は、もう番組は半ば過ぎだった。
同じ病室に、同い年くらいの男の子が2人
(2人とも5、6歳くらいだったろうか)
ベッドが隣り合わせに並んでいた。
片方の男の子は、ガンが脳にまで転移していて
目が見えない状態だった。
もう片方の男の子は、足が不自由だったようだ。

目の見えない男の子と足の不自由な男の子は仲良しで、
足の不自由な男の子は絵本を持って、
車いすで目の見えない男の子のところへ行こうとしてあげた。
ほんのわずかな距離だったのに
目の見えない男の子は
「気をつけてきてね」
と、相手の男の子に声をかけていた。
本当に仲の良さそうな2人だった。

足の不自由な男の子に外泊許可が出て
家へ帰った日、
目の見えない男の子は亡くなった。
足の不自由な男の子が病室へ戻ったとき、
隣のベッドは、もうきれいに片付けられていた。

大事な友達が亡くなってしまったことを
「○ちゃんは、星になったんだよ」
と、お母さんは説明したけれど
男の子は
「でも会いたいよ……」
と言っていた。
番組を観ていながら、私は涙が止まらなかった。

子供の“死に対する概念”というのは、
ごく幼い頃だと、死んだ人を見て
「眠っている」としか感じられないそうだ。
4~6歳になると
「どこかへお出かけしている」と思い、
もう二度と戻ってこないのだと理解するのは
10歳を過ぎてからなのだという。
でも、足の不自由な男の子は、自分の中で
仲良しの男の子の「死」を
もっと違った形で納得したようだった。

目の見えない男の子がいたベッド脇の窓に
その男の子が生きていた時から
ミニーちゃんのシールが貼られていた。
ミニーちゃんのシールは、
残された男の子にとって「とても大事なもの」に
なったのだそうだ。
はがして手元に置きたいというのではない。
今は星になってしまったかもしれない
仲良しの男の子が
たしかに自分の横にいて
話をしたり遊んだりしていたのだ。
その時にあったミニーちゃんのシールは
彼が生きていたことを思い起こす
「よすが」だったのだ。

それを感じることがとても大事なことなのだと、
細谷先生は言われていた。

死んでしまった人は、もう二度と戻ってこない。
でも、その人はたしかに存在していて
その人と過ごした時間があったのだと
忘れないで覚えていてあげることが
死んでしまった人にしてあげられる
唯一のことなのかもしれない。

小さな2人の男の子が
私に教えてくれたような気がする。

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2008.07/07(Mon)

七夕ですが…

今日は7月7日、そう「七夕」。
(東京はあいにくの天気だが……)
織姫と牽牛のロマンチックな物語に
遠距離恋愛の自分を当てはめてみたり、
恋愛以外であっても、色々な願いを胸に
今日という日を迎えている人もいることだろう。

さて、この織姫と牽牛の物語、
実はあまり詳しく知らなかった私。
どういう理由で、一年に一回しか二人は会えなくなったのか、
ちょっと調べてみた。

織姫は天帝という、まあ、最高神の娘であった。
織姫の織る生地はとても見事だったのだが、
毎日機ばかり織っていたので、
父親である天帝は織姫を見ていて心配になった。
それで、天帝自ら牽牛という若者を
紹介したのである。
二人は意気投合し、結婚したのであるが、
あまりにも仲が良すぎて
織姫は機織りを
牽牛は牛追いを
やらなくなってしまった。
それで天帝は怒り、
二人を天の川を境に引き裂いて
年に1度、7月7日だけ会うことを許したのである。


この天帝のやり方、ちょっと

勝手すぎないだろうか?(;・∀・)

元々、自分の娘は
何事も夢中になってしまう性格であるということを
機織りしている様子で分かっていただろうに。
それを自らの手で牽牛という
織姫に合いそうな若者を紹介したわけだ。

織姫が牽牛に夢中になり
機織りなどしなくなるだろうということは

神様なんだから

予想できただろうに……

それに、織姫と牽牛が絶対会えないようにすれば
お互いそのうちあきらめて
違う伴侶を見つけたかも知れないが、
1年に1回だけ会える(かもしれない)なんて
中途半端な条件をつけたことで
二人は
永遠にお互いを忘れられない存在になってしまった
のでは?!

ああ、こんなひねくれたことを
いつも考えているから
私が今まで短冊に書いてきた願いは
なかなか叶わなかったのかもしれない……

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